国際化とは要はなんなのかと

さて最近一部のブログ界をにぎわせている国際化です。
『お前は国際化できていない』を来年の流行語大賞にするためにも、一部のブロガーさんにはもっとがんばって頂きたいところではありますが、はてさて国際化する気もなくでれーっと日本にて日本語で書いている僕にとっては、あまり煽られた感がありません。幼稚だといわれてもまあ毎日のように嫁に言われてるので慣れてますし。田舎者といわれたって、これから東京を捨ててスローライフでも送ろうかと思ってましたので田舎ものとはまたすばらしい褒め言葉かなと思ってしまいます。
この「国際化」、反意語は本当に「田舎者」なんでしょうかね。国際化するといわれたってイマイチぱっと想像できないくらい抽象的じゃあないかと思うんですよ。
日々同じエントリを英訳して書けといわれましてもですね、面倒くさいし、第一英語なんて出来やしません。英語なんて大っ嫌いですもん。
だから道端で韓国人とかフランス人に道を聞かれることがあるんですけれども、絶対日本語で返しますからね。インテリ気取って英語なんかで答えたりしません。
まあそんなことは置いておきまして。
じゃあ国際化とはなんなの?っていう話なんですが、調べてみたら、やっぱり曖昧というか、抽象的な単語のようなんですね。

地方的や個人的な国際化などはあいまいな言葉にあって具体的にどんな事を目指せばいいですか?

国際化と言えば一つの成長であるはずです。よく,変化というイメージが強いですけど、ただの入れ替えじゃなく,成長を目指した方がいいです。お互いに顔見知りの田舎の人間の間では個人的な成長と地方の成長の区別は難しいと言えます。そのため、国際化は何かと定義を作ろうとすると、このページの標語みたいに難しい言葉となります。
この言葉は大体個人的な国際化であるけれども,分析すると,この手順成ると思います。
国際化の最初には文化,社会,人間,や人種のぶつかりや出会いです。
そのぶつかりから他人に付いて学びます。例えば,インドのカレーを始めて食べて,日本のカレーよりも辛いと学びます。
その食事のぶつかり合いから、自分の事をもっとよく知ることが出来ます。日本のカレーはあまり辛くない事、あるいは自分の好みを知らなかった人が異文化体験を通して日本にまつわる事を学びます。
そして発見し出したら、たまらん事となります。他人の事を学んだら、その上に好奇心が生まれる。つまり、自分で自然と他人に興味を持つことです。
そして興味を持って自分からいろいろ調べだしたりして、その他の文化の人と繋がりが生まれてくると国際化の一番大事な利益が得ます。お互いに責任を感じることで鶴見町大分県よりも大きい意味で世界の成長となります。
無知な人間から世界に責任を感じるような人間は個人的な国際化だと思います。4,300人の鶴見町内でユーロを量害する事もなかろうし、アメリカの大統領は遊びに来る事も少ないと思いますが私みたいな国際交流員の給料の分ぐらい鶴見町に影響を与えないといけないでしょう。しかし、世界に責任を感じるような人間の成長を支えたりするのは鶴見の人間にも町の環境にもその価値があるのだと思います。
Welcome to the Tsurumi International Relations Homepage. - 国際化とは

これを書かれた方の前後の体験談なども非常に興味深く拝読させていただきました。

国際化とは異質な存在を認めていくことである。だから単純に周りを英語で埋め尽くしたところで意思疎通の手段にはなっても相手の存在を認めたわけではない。

しかし相手の存在を認めるというのは島国である日本にとってたやすいものではない。
そこで今の日本に不足なもの、これからの日本にとって不可欠なものとして次の三点をあげる。

一、 国民性(Identity)
二、 透明性(Intelligibility)
三、 創造性(Creativity)

この三点は私が今の日本に欠けていて最も必要性の高いものだと考える。
はじめに、私がなぜ国民性を挙げたかというと、私は一人一人の意志がしっかりしていなくては多文化社会は成り立たないと考えるからである。そして多文化社会は相手の存在を認めなくては成り立たないものである。
『国際化で日本に欠けているもの』

こちらも面白いですね。
要するに、日本という単一民族国家であることに起因する、世界的に見て異質な民族性が、国際化できていない最大の問題ではないかと考えるわけですね。
いわば日本という非常に大きなムラ社会の中で我々は育っている、ともいえるわけで。
単一の価値観が良しとされ、価値観の異質なものは虐げられる文化にある、とでも言うんでしょうかね(ちょっと自分はボキャブラリが足りないため、どなたかが補完してくださると助かります。言いたい事はなんとなく伝わるのではないかと思います。)
つまり多民族国家の場合、普段からコミュニケーションしている相手は、0か1か、好きか嫌いか、白か黒かの二つに分けることなど出来やしないんですね。もともと皆の主張がそれぞれ違う。もう少し言うと、主張が違って当たり前。
で、そうなれと。
国際化しろというのは、俺の異論も聞け、そしてお前の意見を言えと。
そういうことなんではないかと思われるわけです。
やれコメント欄は開け開くなだの、異論トラックバックは愉快不愉快だの、システムのあり方、マナー論にて語られるわけですが、
異論を受け入れない、コメント欄を開かないでは国際化できませんよと。
そりゃそうだと思います。
皆が国際化したいのか?というと、まあそうではない人もいるでしょうから、そういう方の場合はパスワードせいにするかログイン制のSNSにでも引っ込むか、チラシの(ry ってことですよね。


だとするとですよ?
同じことを言っている人に向かって、何で国際化できていない小学生だ次からママとおい(ry なんて罵倒するんですかね?とは思いますがね…

LSTYさんが、コメント欄でこんな事を書いてくださっています。

 他人が書いた物を読む、とか他人の表現を見る、って言うのは、新しい物を探す楽しみを提供してくれる。
 でも「自分にとって新しいこと」って、未知なもの、触れたことのない物なんですよね。だから、新しいものってすぐには受け入れられないんですよ、ほとんどの場合。
 そこで、いったんは反発するんですよね。少なくとも、僕の場合はそういう事が多い。反発しつつも「これはどういうことだろう?」って考えて、少しずつ受容する。それが他者と交わる楽しみなのではないかと。

 でも、そういう覚悟のない人とか、あるいは虚勢を張るために罵詈雑言を放ったり、メンツ保持のために最初の主張を押し通す人が多いな、と。
 そうなるとつまらない。ただ窮屈になるだけ。
Posted by LSTY at 2005年12月14日 13:13
他人の不幸は蜜の味: 12/13日記(トモロヲ反省・ネット社会での生き方)

これは僕も先日の某氏との不毛な罵倒コメントの繰り返しで共感を覚えた部分です。
ぶつかってはじめてその相手の考えを理解できたり、交わる事が出来ると思いました。
自分とは異質なものと交流する、というのも、悪くないと思います。
最初に出した外交官の方のテキストにもありましたが、異文化とコミュニケーションを始めることで、新しい興味がわいたり、さらに新しい出会いが待っているんだと思います。
これだけ開かれたインターネットという場において、新しい出会いを望まないのはなんて勿体ないのだ!
と、
たぶん国際化しろと強く主張するのは、そういう背景があるんではなかろうかと思うわけです。